2017/04/11

学生服は処分場に行けない




最近、物語に登場する学生たち、ティーンエイジャーを中心とした年齢のキャラクターたちが、ようやく「素敵」だと思えるようになってきた。
ようやく。

学生たちの物語には、一定の人気があるようだ。映画のポスターや漫画の表紙やドラマの番宣に学生服は欠かせないし、そういう人気は世界共通のところもある。あーりんは、そんな物語の支持者たちの熱狂を目の当たりにしながら、キラキラでギラギラの誇張された学園生活を浴びては、己の記憶や現実にいい感じのブラーをかけて、そうやって真っ赤な嘘を真実と呼び続けた挙句、ついに真実にしてしまうつもりなのかな、まあ、それもいいんじゃないの、干渉はしないよ、みたいな、割と冷めた目で見ていたつもり、だった。

ところが、最近になってきて、みょーーーーに、学園ドラマが楽しいのだ。
大抵の場合、彼ら・彼女らは、物語世界の中で、懸命に、真摯に生きている。少なくとも生きようとしている。それが結果的に上手く行かなかったりすることも多々で、というか失敗ばかりなのだけれども、いかなる結果においても過剰なまでに真摯に受け止め、喜び舞い上がり、あるいは怒り、失望し、悲しみに暮れたりする。そして再び立ち上がる。そう、立ち上がるのだ。そんな彼らの姿が、なんとも魅力的で素敵に見えてきた。チャーミングで愛おしいのだ。応援したくなるのだ。そう思える。

閑話休題。
「若いっていいよなあ!」という感慨には、「もう自分は若くないからね」という背景を相対的・暗示的に含意していることに注目しなければならない。その事実について思いを馳せると、あーりーんの場合、何故か「滅茶苦茶に散らかった野外のゴミの山=最終処分場の光景」が脳裏に浮かんだりする。そして、自分の肉体がそこに放り込まれるのももう時間の問題だろうなー、などとペシミスティックに思ったりもする。

ちょっと考えてみれば、わからなくもないお話だ。これまでにおいて致命的、宿命的なまでに「校舎で学業する若者」という生き物になれなかった身としては(その点に関してはそこそこの人に勝てる自信がある(ばかじゃないの))、愉快、不快以前に、「よくわからない」という心的処理でもって、物語に登場する学生たちに対応していたのだろうと思う。今はそうした疑念、あるいは懐疑が若干でも乖離して、言わば素直かつニュートラルな気持ちでフィクショナル・ティーンエイジたちに感心できるようになったのだろう。だとすればそれは好ましいことだ。

あるいは、もっとも哀れな事態を――忌避さえもできなくなってしまったという事態を――自らに宣告してしまった、ということのかもしれないけれども。

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