・まだ下書き段階。21時に「1時間かこう」と始めて、気づいたら0時を過ぎている。理由は単純―「直し」が多すぎる。描いては直し、をひたすら繰り返しているからだ。どこに何を描くべきなのか、どの線をどう引くべきなのか、根本的な理解が足りていないからだろう。
・人体の構造がよくわからないから体や腕をなおしまくることにもなる。人体を描く練習というか、知識が要るな、と感じた。
・表情のパーツも、なんとなくで描いているけれど、これも改善が要ると思う。「どう描くべきなのか?」は意識しないといけない。・まだ下書き段階。21時に「1時間かこう」と始めて、気づいたら0時を過ぎている。理由は単純―「直し」が多すぎる。描いては直し、をひたすら繰り返しているからだ。どこに何を描くべきなのか、どの線をどう引くべきなのか、根本的な理解が足りていないからだろう。
・人体の構造がよくわからないから体や腕をなおしまくることにもなる。人体を描く練習というか、知識が要るな、と感じた。
・表情のパーツも、なんとなくで描いているけれど、これも改善が要ると思う。「どう描くべきなのか?」は意識しないといけない。いま「つくりたい」と思っているゲームのアイデアは、おおむね4つ。
— あーりん@ゲームづくり。 (@g_earin_g) October 26, 2020
→ただ、どれも、ツールの習熟が前提になりそう。
技術的にはこれまでと同じウディタだったら作れるだろうけれど、ウェブページで動くツールを使いたいという気持ちがあり。どうしようかな…とかなり考えている。
絵を描きたい欲も出てきているし、お話もちょっと作りたい。創作意欲"だけ"はけっこう在る。
ただ、かたちにならない。
かたちにする意欲が十分にないのか、実はかたちにしたくないのかは、よく判らない。作らなければ…という切迫感こそがない、のかもしれない。あるいは知識か。あるいは環境か。
そうしたことについて、ぼんやりと考えているうちに、日々が過ぎていく。
5月ごろから、ずっとそういう気分だ。落ち込んでいるわけではないと思う。以前と同じように、面白いものは面白いと感じるし、「すごかった!」と心のなかで喝采を挙げたりもする。(家にいることが多いので)体力はきっとけっこう落ちたけれど、体調は悪くないはずだ。健康診断の結果も普通だった。
ただ、以前に比べると、自分の精神や知覚の内側に、なにか空虚さのようなものを、感じないでもない。やけに冷静で、空っぽめいている。というか。無根拠なあたたかみがないというか。
良くない。悪くないけれど、良くもないなあ。一時的なものであることを祈る。
部屋の整理整頓をしていたら、かなり昔に購入したペンタブレットが目に止まった。ひさしぶりにちょっと絵を描いてみることに。
「いばらのうみ」のムルソーを描く予定だったのだけど、試し書きを続けるうちに、かるを描く。
目は描き込みすぎ感がなくもないけれど、「いまはこれがいい」と判断したので、こうした。
えって、難しいけど、おもしろいね。いつになく、「シリアスな邦画」を、レンタルして観ている。
われわれの実生活に近い実写の町並みの中で、日本語を話す人々によって演じられる、真剣な物語との対峙は、なんというか、けっこう「痛い」と感じる。
自分がたびたび出会う、その国内映画作品に見られる「痛み」の根源について、少し考えてみると、「より曖昧だから」、そして「より具体的だから」という、相反する2要因が混在しているように思えた。
曖昧性――たとえば、同一の文化圏に属する演者が作る「悲しい表情」を観るとき、鑑賞者に与えられる情報量は、「眉を下げているから悲しいんだなあ」という論理による解釈のレベルを、悠々と超えていく、と思う。それはきっと演者の意図すら超えてしまうのだ。非言語的な表現コードが近い、または同一の人々の表情の示唆は、そうでないものよりも、より身体的に、直感的に理解できるため、われわれの心の奥深くまで侵入するのだろう(もちろん、演者の技量に大きく依存するけれど)。特に、オーヴァーなリアクションを要しない「真剣な邦画」は、この解釈のプロセスに、私はけっこう体力を消耗したりする。非言語的な情報量が多いから――「より曖昧だから」、心に刺さって、痛む。
具体性――そして、邦画で描かれる物語には、甘い想像の余地が小さい。同一文化圏に所属すると解釈した登場人物のバックグラウンドについては、作中で語られてないものであっても、より具体的に想像できる。「彼はこういう高校で、こういう友人に囲まれていたのだろうな」「彼女は着物で初詣に行くタイプだな」「この人のスーツは満員電車のにおいがするんだろうな」といったような想像が、より具体的に、経験的なレベルから施行できる。そしてどうしても、ファンタジックな空想を逃げ込ませる余地は、限られる。我々と地続きの現実に住んでいるから――「より具体的だから」、心に伸しかかって、痛む。
その痛みたちは、良くも悪くも、普段楽しんでいる外国作品ではどうしてもリーチできない、生々しい領域にあるものに思えた。そしてその生々しさを、私は無意識下においてさえ忌避していたのだと思う。だが、それはそれで「もったいない」という気持ちも、抱えていたりもするのだ。最近邦画を見続けているのは、きっとその分の「回収」の意図が、どこかで働いているのかもしれない。
長々と書いちゃったけれど、ここ数週間は、「痛ッてえな畜生」と心で叫びながら、邦画を楽しんでいるよという、そういうお話。
・つぶやき界を見ているとこちらのつぶやき意欲も活性化されるような気がするが、肝心のつぶやきたいことが、とくに、ない。
・そんなに、それほどまでに、日常的な事柄を日々せっせと140字以内で書かないといけないでしょうか?と、自分に対してイラついてくる。
・つぶやき界、「漏れている」感覚に、「まとまらないなあ」と感じていて、それに伴って、辛さがにじみ出てきて、とまらなかった(個人の感想です)。あいにく、そうやって器用に踊れないからね。とめどなく、無制限に、漏れて、にじみでる。脱統一感。無力感。そういうものばかりだった。慣れようとちゃれんじをつづけているが、まあ、難しいね。
・日々つぶやく自由があるのだったら、言葉を一定以上のかたまりとしてキープしてから、形にする自由もあろうな?とも思う。ひとつ、予感がある。私は、そちら側の自由を、信じざるを得なくなる、という予感が。その未来の先にあるのは、このブログというヤシの木一本の極小アイランドの上で、木の棒を振って生き続ける姿だろうか? 自分で言いながら哀れだな、それは…。だがそっちの方が真のつぶやき界という感じでもある。
・(進捗)「八咫川みさきの話」、物語の筋はできたのだが、なかなか進まない。なんか…「足りないな」と感じる。内容もそうだが、こちらの意欲サイドに。この物語を私は表現したいのだろうか?