いつになく、「シリアスな邦画」を、レンタルして観ている。
われわれの実生活に近い実写の町並みの中で、日本語を話す人々によって演じられる、真剣な物語との対峙は、なんというか、けっこう「痛い」と感じる。
自分がたびたび出会う、その国内映画作品に見られる「痛み」の根源について、少し考えてみると、「より曖昧だから」、そして「より具体的だから」という、相反する2要因が混在しているように思えた。
曖昧性――たとえば、同一の文化圏に属する演者が作る「悲しい表情」を観るとき、鑑賞者に与えられる情報量は、「眉を下げているから悲しいんだなあ」という論理による解釈のレベルを、悠々と超えていく、と思う。それはきっと演者の意図すら超えてしまうのだ。非言語的な表現コードが近い、または同一の人々の表情の示唆は、そうでないものよりも、より身体的に、直感的に理解できるため、われわれの心の奥深くまで侵入するのだろう(もちろん、演者の技量に大きく依存するけれど)。特に、オーヴァーなリアクションを要しない「真剣な邦画」は、この解釈のプロセスに、私はけっこう体力を消耗したりする。非言語的な情報量が多いから――「より曖昧だから」、心に刺さって、痛む。
具体性――そして、邦画で描かれる物語には、甘い想像の余地が小さい。同一文化圏に所属すると解釈した登場人物のバックグラウンドについては、作中で語られてないものであっても、より具体的に想像できる。「彼はこういう高校で、こういう友人に囲まれていたのだろうな」「彼女は着物で初詣に行くタイプだな」「この人のスーツは満員電車のにおいがするんだろうな」といったような想像が、より具体的に、経験的なレベルから施行できる。そしてどうしても、ファンタジックな空想を逃げ込ませる余地は、限られる。我々と地続きの現実に住んでいるから――「より具体的だから」、心に伸しかかって、痛む。
その痛みたちは、良くも悪くも、普段楽しんでいる外国作品ではどうしてもリーチできない、生々しい領域にあるものに思えた。そしてその生々しさを、私は無意識下においてさえ忌避していたのだと思う。だが、それはそれで「もったいない」という気持ちも、抱えていたりもするのだ。最近邦画を見続けているのは、きっとその分の「回収」の意図が、どこかで働いているのかもしれない。
長々と書いちゃったけれど、ここ数週間は、「痛ッてえな畜生」と心で叫びながら、邦画を楽しんでいるよという、そういうお話。
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